
先日伊丹を散策していましたら古い造り酒屋があり、その横の駐車場越しに眺めると、
その大きな店舗家屋の屋根が複雑な格好でしたので、あれっと見つめました。
ここを管理している方が説明してくれたのですが、
このややこしい小屋根構造は漢字の「入」を意識したものだそうです。
人(お客さん)がたくさん入ってくださいますようにとの願いを込めたものだそうで、
江戸期から続くこちらさんでも「おかげさまで繁盛しました」とのことでした。
へ~~~な話を伺って、思わずパチり・笑
MINOLTA X-70 / MD W.ROKKOR 35mm F1.8 / KODAK Max Beauty 400
なかなか立派なものですよ。


形態はオーソドックスな獅子系のものですね。結構新しいものと見受けます。
MINOLTA DYNAX 3L / MINOLTA AF ZOOM 24-50mm F4 / KODAK 400TX ND-76 1:1 23℃ 8分
ここで蘊蓄話を少々
狛犬は中国語では石獅子と言い、犬に似た想像上の獣の像のことを指すそうで、
朝鮮半島を経由して渡来したときに、高麗犬に狛犬と字をあてたと伝わっています。
古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像がその源流とする説が有力なようです。
日本に渡ってからは元々の獅子の形態ばかりでなく、お稲荷さんのキツネ、春日神社のシカ、その他
イノシシ、タツ、ヘビ、オオカミ、イヌなど神社の性格に合わせてバリエーション豊かになっています。
英語のアルファベットは「A」で始まり「Z」で終わります。
日本語では「い」で始まり「す」(「ん」)で終わります。(現在は「あ」で始まり「ん」で終わる)
古代インド文語である梵語では「阿(あ)」で始まり「吽(うん)」で終わります。
阿は口を開いて出す音で、吽は口を閉じて出す音です。
阿と吽を合わせ物事の最初と最後、あるいは物事全てを表します。
阿と吽には吐く息と吸う息という意味もあり、阿吽の呼吸で両者の呼吸が同期すると解釈できます。
狛犬の一方が口を開け、一方が口を閉じているのはこの阿吽の呼吸を形にしたもののようです。
仏教寺院では狛犬が仁王の姿に変わり、阿像吽像の立像が仁王門で睨みをきかせていますね。
どちらが先かと言えば、本当は仁王を一対の阿形立像と吽形立像で構成するのが先行して、
狛犬がそれに習って一対の姿になった、ということが真実だろうとされています。
本来の狛犬は吽形の方で、口を閉じて頭に角を生やしている一角獣のようなもの、
阿形の方は口を開いていて、角はなく、これを獅子と言います。獅子舞の獅子ですね。
昭和以降に作られた狛犬の吽形には角がないのが一般的になってきたとのことです。
一対の狛犬は社殿と並行して置かれ、互いに向き合うようにするのが元の姿ですが、
社殿に背を向け、参拝者と向き合うように置かれているものも多いようです。
この畠山神社の狛犬は、互いに向き合うオリジナルの据え方ですが、吽形に角はありません。
余談ですが、京都の神社にはなぜか狛犬がいないところが多いんです。理由はわかりません。
多分、伝統的な日本神道においては狛犬がなじまなかったのではないか、
信仰対象が山や川や岩や森といった自然物などで、神を納める拝殿や神殿がなかったから、
狛獅子や狛犬で守る形を作る必要がなかったのではないか、と私は思うのですが。
実はこの4人の中で本物の舞妓さんは1人だけなのです。
分かりますか?
(1)

(2)

MINOLTA DYNAX 3L / MINOLTA AF ZOOM 24-50mm F4 / KODAK 400TX ND-76 1:1 23℃ 8分
↓↓↓ 正解は、[本物!偽物?]の続きを読むで確認してください ↓↓↓
山というより丘と言ってもいいような小高い山があります。
千本通を北上すると徐々に坂で登って行きますが、本格的な山にあたるちょっと手前になります。
海抜112m弱、実質相対標高は数十m、面積は2万5千坪、どうってことのないところなのですが、
実はここが平安京を造営する時に扇の要になったところなのです。
(1)

この船岡山の頂上から眺めますと、京都市街が一望の下に眺められます。
実にいい眺めでありますなぁ。空気の澄んでいるときなら相当な遠望がききます。
市街との標高差は高々100mもないのですが、高層ビルのない町ならこれで十分です。
真南を遠望しますので、常時逆光になるのが難点ではありますが。
(2)

8世紀末に平安遷都で平安京を造営するとき、桓武天皇が秦氏を伴ってこの頂上に立ち、
平安京の全体構想を思案し、指示したと伝わっているのです。
写真の赤い縦線が現在の千本通で、今出川通を起点に真南にまっすぐ延びています。
これが平安京当時の朱雀大路になります。つまり、当時の京都の中心線です。
この北端、手前側が当時の大内裏になりますので、平安京をここから描き起こして造った、
というのがよく理解できますね。
(3)

後世になって京都の中心部は次第に東に、そして南に移ってゆきまして、
現在ではこの地は北西外れの方になってしまっていますが、
造営当初は京都を東西に分け南に広げる芯だったんです。
後年北方にも市街は広がり、朱雀大路は現在では千本通と名を変えていますが、
船岡山に突き当たるのを避けるように、今出川通から少し斜め西に向いて延びてゆき、
この船岡山の西麓を通り、ずっと北の京見峠に通じる道路となっています。
現在の古都京都の第一歩はこの山から始まったと言われているんですよ。
この船岡山はこのような遊歩道で全体を回れるようになっています。
(4)

FUJIFILM GA645zi / SUPER-EBC FUJINON ZOOM 55-90mm F4.5-6.9
/ FOMAPAN Action 400 ND-76 1:1 23℃ 8分
ご存じのように京都洛中で住所を伝える時には通りの名称をくっつけて話します。
これは智恵光院通沿いにあって下立売通との交差点を南下したところで、町名は下丸屋町ですよ、と言う意味です。
写真に写っている通りは下立売通ですが、看板は智恵光院通に面しています。
(1)

こちらは下立売通沿いにあって智恵光院通との交差点を西進したところで、町名は下丸屋町ですよ、と言う意味です。
この看板は下立売通に立って南に向いて撮っています。位置関係分かりますか?
(2)

このように東西でも南北でも面している通りを先に言い、
家から近い交差する通りを次に言います。
面してる方は「通」をつけ、交差してる方には「通」をつけません。
交差点自体は「智恵光院下立売」のように両方とも「通」をつけません。
東西、南北どちらを先に言うかはその交差点ごとに違います。
昔からのいい慣らわしで聞きなれた言い方で表現されます。
普段の会話では下丸屋町という町名は言いませんが、町名の方が伝わり易い時には町名だけを言います。
町名には「このあたり」という意味合いがあり、西大路丸太町の交差点あたりは円町と言います。
この交差点は「円町」交差点で、「西大路丸太町」交差点とは言いません。
偶にこんな例外があるからややこしいですね。
また、四条河原町でも河原町四条でも好き好きですが、一般的には四条河原町と言い、河原町四条とは言いません。
敢えて後者の言い方をする時には河原町通四条上ル(下ル)の意味があります。
「どこにあんの?」「四条河原町」「ふ~ん」
「どこにあんの?」「河原町四条」「上ルん? 下ルん?」「ああ、下ルんよ」
交差点から東へは「東入ル」、西へは「西入ル」、北へは「上ル」、南へは「下ル」と言います。
先の写真の2枚の看板は10mと離れていないのですが、(1)は智恵光院通に面し、(2)は下立売通に面してる同じ町内です。
さて、交差点の角にあるお宅はどっちが先に来るのでしょうか?
これも好き好きですが、大体はお店なら店舗の正面、住宅なら玄関がある方を先に言います。
この原則を覚えておけば道に迷うことはありません。 (^^)v
MINOLTA α-7xi / AF ZOOM 24-50mm F4 / KonikaMinolta PAN 400 ND-76 1:1 23℃ 8分
皆さまのお手元には明日届く予定です。楽しみにお待ちください。
明日は広島の原爆祈念日、9日は長崎原爆祈念日、15日は敗戦の日、
ということで日頃気になっている戦争ネタを・・・
「京都は戦争で空襲受けんかったから」
「アメリカが文化都市京都を守るために攻撃対象から外したから」
これが大嘘であることをご存じでしょうか。
昭和20年1月京都に1回目の空襲がありました。
これは東山の方で死者41人、負傷者48人、被災家屋316戸を数えます。
以来3月1回、4月2回、5月1回と空襲を受け、6月には西陣が襲われ、
死者50人以上、負傷者300人以上、被災家屋約300戸の被害を受けました。
これらの空襲は一般市民や住居を狙った無差別爆撃以外の何ものでもありません。
当時は報道管制が徹底され、特に京都が空襲されたという情報が漏れると国民の動揺は看過できず、
殆ど伝えられることはありませんでした。東京、大阪などに比べ小規模であったこともあって
先の「京都はアメリカの思いやりで守られた」神話になったものだと思われます。
ここは山中油店、昔ながらの風情をとどめた老舗油屋でありますが、
その昔ながらのショーウィンドウにこれが展示されています。
それは、西陣空襲の時の爆弾の破片と状況を伝える文章であります。
(1)

この山中油店では私的歴史博物館として当時の模様を伝える別館での展示もされています。
(2)

この山中油店は11日のオフ会の時にご案内するコースの中に入っています。
京都が空襲を免れたのは米国の文化財保護政策のため・・・
これが長く信じられてきていたのですが、
実は「原爆投下の第一目標は京都だった」という史実も明らかになりました。
最近明らかになった「米国原爆開発極秘公文書」によれば、
目標は国鉄梅小路機関区(現在の梅小路蒸気機関車館)を照準とし、
そこを中心とした直径3マイルを灰燼化効果確認エリアと設定しています。
東西北と三方を山に囲まれた盆地で密集した100万都市、しかも日本にとって最重要歴史都市、
京都盆地の梅小路に原爆を落とせば南に開いている方から新鮮な空気が補給され、
火の手は北、東、西へと一気に舐め尽くし市全域を壊滅させる理想的な地形と考えられたようです。
そのために通常爆撃をせずに温存していた可能性が高いというのが分かってきました。
その後ウラン型とプルトニウム型がほぼ同時に完成し、直接効果の比較確認のために
同時期に2発落とす方針となったため標的が変わったということのようです。
一旦戦争になるとどのような歴史都市であろうと世界遺産であろうと保護されるものではない、
というのはその後の各地の戦乱を見ても明らかでしょう。
ですから、京都がいまの形で残ったのは、たまたまの偶然であって、
奇跡的に焼け残った歴史都市といった認識の方がいいのではないでしょうか。
それだからこそ、その奇蹟をありがたく受け継いで守ってゆかねば、と思うのです。
脳天気な平和ボケで感激していたのでは空襲で亡くなった方々が浮かばれませんよね。
MINOLTA α-7xi / AF ZOOM 24-50mm F4 / KonikaMinolta PAN 400 ND-76 1:1 23℃ 8分
宿題で残していました最後の1軒に今日行ってきました。 (^^)v
(1)

寺町通を上がって御池通との角に和菓子の老舗「亀屋良永」があります。
こちらの看板は武者小路実篤の筆で、実篤80歳頃、昭和30年代末頃に書かれたものだそうで、
実篤最晩年の作となる貴重なものです。
残念ながら今日はお休みのようで、シャッターが下りていました。
(2)

こちらから寺町をちょいと下がった斜め向かいが本能寺であります。
そして、その本能寺からまたちょいと下がった斜め向かいがこの喫茶店、
アタシがご贔屓にしているお店で、いつもホッとするタイムをご提供いただいております。 (*^_^*)
(3)

とりあえず宿題を片づけましたので、三条通から河原町通に抜け、帰宅することにします。
三条通商店街は、前回来た時には鯉幟が游いでいましたが、今はコンチキチの提灯に変わっていました。
そうです、京都はもう既に祇園祭モードに突入しているんです。
祇園祭は17日に行われる32基の山鉾巡行、せいぜい14~16日の宵宮と思われていますが、
ホントは7月1日から28日まで(旧暦で)丸々1ヶ月間のお祭なんです。
吉符入(各町内が集まっての打ち合わせ)、くじ取式(17日の山鉾巡行の順番をくじによって決める)は済んでますが、
10日の提灯行列、10日から14日の鉾立など行事が目白押しで、今京都に行くとお囃子があちこちから聞こえます。
(4)

戻りなから河原町通を四条に向かって歩いていましたら、コンタックスサロンがありました。
先日プレス発表がありましたが、ここもとうとう閉められることになってしまいましたね。
タイミングはコンタックスカメラの保守サービス終了に合わせたんでしょうか。
元々ここは京セラのジュエリーショップの傍らにひっそりと、こじんまりとありましたので、
なかなか入りにくいところでありましたが、勇気をふるって入ってみると常連のご老人がいつもたむろしていて
あまり居心地のいいところではありませんでした。京都では金満有閑老人サロンと化していたんです。
とは言うものの、消え去るというのは寂しいものであります。
(5)


MINOLTA α-7xi / MINOLTA AF 24-50mm F4 / KODAK 400TX ND-76 1:1 23℃ 8分

さて、お待たせしました。昨日の続きです。 σ(^◇^;)
この写真の橋もなかなか風情があるでしょう?
これは松原橋で五条大橋の一つ上流に架かる橋です。
実はこれが昔々の五条橋なんです。
勿論架け替えられていますのでモノとしては新しいのですが、
サイズ的にはほぼ昔のままで作られています。
(2)

(3)

この松原橋のかかる松原通は元々五条通として作られ、清水寺への参道として賑わっていました。
松原橋は清水さんにお参りする時に渡る橋として古くから架けられていまして、
「清水橋」とも、また、清水寺の勧進でで架けられたので「勧進橋」とも別称されました。
そしてこの五条通は松並木の続く美しい道路だったので「五条松原通」と呼ばれていましたが、
いつの間にか五条が省略され、通称「松原通」となってしまい、五条通は消えたのです。
そして、今では松並木も消えてしまいましたので、なんで松原なん?て感じになってしまいました。
一方、現在の五条通は元々は六条通(坊門小路)だったのですが、秀吉が方広寺大仏殿造営にあたり、
「鴨川に橋を架けなさい」「道を広げなさい」ということで道が整備され、橋が架けられました。
ですから、もし史実どおりに弁慶と牛若が五条橋で出会ったなら、時代考証的には
今の五条大橋は存在せず、この五条橋(松原橋)で出会ったことになります。
京の東の外れ、洛外で清水さんの参道ですから、昼は賑わっても夜は寂しいところだったでしょう。
闇夜に僧兵の格好した弁慶がヌッと現われても不思議はないですね。
消えた五条通が懐かしくて復活したいのか、六条坊門小路の方が立派な通りだったからか、
秀吉の命で新たに整備された方が五条通、そして太閤橋が五条大橋になってしまいました。
京都の地図をみていただいて、現松原通を五条通、現五条通を六条通と読み替えてみると、
四条、五条、六条、七条と上手い具合に並びますでしょう?
この六条はホントは六条坊門小路なんですけどね。
本来の六条通はも少し南にあるんですが、今では途切れ途切れの痕跡になっています。
そしてなんで六条通がないのかな、という不思議も解決しますよね。
この写真は松原橋東詰の川端通から東の方、東山、清水寺の方を向いて撮ったものです。
これが旧五条通といわれると、何となくそんな雰囲気になってくる風情が残ってますよね。
(4)

今度は松原橋西詰の木屋町通りから西の方、洛中を向いて撮ったものです。
手前で交叉してるのが木屋町通で、すぐに高瀬川を橋で渡っています。
暫く行ったどん詰まりで河原町通と交叉しますが、木屋町通りと河原町通の間だけ道路が広くなっています。
河原町通の向こうはまた道路が細くなっていますね。洛中の旧五条通(松原通)は今でも東西一直線で残っています。
(5)

今度は高瀬川の橋の上から東の方、松原橋を振り返ってみました。
手前の信号機のある交叉道路は木屋町通、向こうのパネルバンのいるところが松原橋になります。
この道路幅が旧五条通、現松原通の道幅です、現在は東行き一方通行になっています。
(6)

いかがでしたか?
歴史を辿って調べてみると思わぬ事実が見えてきて面白いですね。
(1)(2)(3)(5) FUJI GS645S Professional wide 60 / SUPER-EBC FUJINON 60mm F4 / ILFORD PAN 100 ND-76 1:1 24℃ 8分
(4) FUJIFILM Silvi F2.8 BLACK / SUPER-EBC FUJINON 24mm/F2.8~50mm/F5.6 / NEOPAN 400 PRESTO ND-76 1:1 23.5℃ 7.5分
(6) FUJIFILM Silvi F2.8 BLACK / SUPER-EBC FUJINON 24mm/F2.8~50mm/F5.6 / NEOPAN SS ND-76 1:1 23.5℃ 7.5分
【補足】
上で大雑把に「六条通はなくなりました」と書きましたが、
厳密には河原町通と堀川通の間に途切れてダンチになっていますが六条通はあります。
これは平安京ができた頃の六条大路とは戦乱などで微妙にずれてきているようです。
現在の五条通になる六条坊門小路の方が立派になってしまったのでいつの間にか忘れ去られた存在になったようです。
元々の六条にちなむ名称は小学校や郵便局に名残を残しています。
ぎなたをもってさ
しころしたるもの
のみのうちは
とどけいづべし
ろくはら
『ぎなた』?? 『しころしたる・・・』??? 『のみのうち』?????
子供の頃手塚治虫の漫画でこのギャグを読んで腹を抱えて笑った記憶が鮮明に残っています。
正解は
『弁慶が長刀を以て刺し殺したる者の身の内は届け出づべし 六波羅』
武蔵坊弁慶と牛若丸(源義経)の出会い伝説で有名な五条橋の仮名書き高札ギャグでした。
♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶が、・・・♪ の歌で有名ですよね。
五条大橋の西詰めにはこのような像が建てられています。
(1)

御所人形風のえらく可愛いキャラになってますね。 (^_^;)
もちょっと強そうに作れんもんかなぁと思いますけどね。
観光客や修学旅行生もバスやタクシーの車窓から眺めて「ここが”あの”五条大橋かぁ」と感激するのでしょう。
ここは今では国道1号線、往復4~6車線で中央分離帯もある幅広の道路です。
五条大橋は勿論架け替えられて新しくなっていますが、風情を残すように巧みにデザインされています。
(2)

五条大橋を渡るとすぐに河原町通との交差点にかかります。
鴨川は四条からズズイと西に曲がりますので、このあたりまで下がってきますと河原町通も曲がって併走になります。
(3)

・・・とここまで説明してきましたが、ここに大きなウソが一つあります。
お分かりになりますか?
弁慶と牛若丸の劇的出会いの史実?はとりあえず正しいとしておきましょう。
で、その出会いの場所ですが、実はここではないのです。
弁慶と牛若丸が出会ったのは平安時代の末期、鎌倉時代の夜明け頃の12世紀後半です。
でも、その頃にはここは五条通でもなく、橋も架かっていなかったのです。
んんんんん????? では出会いの五条橋は?
長くなりますので、この続きは次回に・笑
FUJI GS645S Professional wide 60 / SUPER-EBC FUJINON 60mm F4
(1)(3) ILFORD PAN 100 ND-76 1:1 24℃ 8分
(2) NEOPAN 100 ACROS ND-76 1:1 24℃ 8分
こちらは比較的新しい看板で、どなたの筆になってるのか分かりませんが、
私の好きな字体なので・・・・ (^^ゞ
(1)


いよいよ寺町通に入ってきます、今度は姉小路上ル下ル、三条から御池にかけての看板を拝見しましょう。
まず見逃せないのか寺町通姉小路下ル「鳩居堂」の看板、鳩居堂といえば地価日本一の銀座が有名ですが、
こちら京都でも書家には欠かせない老舗でありますよ。京都と東京は同系二法人になってるようですね。
さて、この看板はいかにも老舗風でありますが、銘については確認できませんでした。スイマセン。
(3)

鳩居堂のすぐ横に洋菓子の老舗「桂月堂」があります。
ここの看板も富岡鉄斎の筆で、銘も刻まれていますね。
我々庶民にはこの桂月道のロールケーキが至福の味となっておるのですが、
こちらの「瑞雲」はパイ生地で作られた小さなお好み焼きみたいな見かけのもので、
なんと昭和3年の昭和天皇御即位御大典に際し創作された特製の洋菓子です。
現在も宮内庁や各宮家より御用命を賜る栄光の御用達銘菓です。
(4)

こちらは「とり市老舗」、この看板には銘がありますが、私の眼力では解析不能・・・
老舗の鶏肉屋さんですが、こんなんもあるよぉ、ということでご容赦下さい。
(5)

三条通との交差点にある牛肉屋さん「三嶋亭」です。
看板は新しいのですが創業明治6年の文明開化と同時に開業された老舗であります。
昨年三条通を暴走してきた車が突っ込んで店を壊されたことで一躍有名になりました。
(6)

トリを飾るのは、、、ここ!
こちらも寺町通と三条通の交差点にありますが、ご愛敬ということで・・・ (^^ゞ
(7)

実は、今回の探索で姉小路から上がる方に行くのを忘れました。
1軒、落としてはならないお店があるのですが、申し訳ありません。
御池通との角にある和菓子の老舗「亀屋良永」、ここの看板は武者小路実篤の筆で、
実篤の最晩年、昭和30年代末頃の80歳頃の筆となっているものであります。
撮り忘れてしまいましたので、そのうち思い出して撮りましたらご紹介したいと思います。
そして、ここには私の行きつけの昔ながらの喫茶店があり、とてもいい雰囲気なのですが、
ナイショのアジトにしておりますので、、、、ヒ・ミ・ツ (笑)
CONTAX G1 / Planar T* 45mm F2 / NEOPAN 400 PRESTO ND-76 1:1 23℃ 8分